イギリスの運河ではナローボートという船を借りて、誰でも免許なしでクルーズが楽しめる。『英国運河の旅』、『イギリス式極楽水上生活』、『イギリス水辺の旅』の著者が具体的な旅のノウハウを伝授します。


by narrowboat
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川北稔『イギリス近代史講義』を読了しました。

某書店で見かけてぱらぱらとめくってみたところ、
産業革命関係がわかりやすく書かれているようだったので、早速購入した次第です。


イギリスの運河が産業革命時代に生まれたことは拙著においても紹介しています。
イギリス初の運河は、1761年、マンチェスターとウーズリーを結ぶブリッジウォーター運河でした。
ブリッジウォーター公爵がウーズリーに所有する炭鉱から、
工業地帯でもあるマンチェスターに石炭を搬出するため、
技師ジェームズ・ブリンドリーとの二人三脚で建設した水路がそれです。
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こちらは昨年ウーズリーで撮影したブリッジウォーター運河。

この運河は石炭の輸送価格を大幅に削減し、
大量輸送機関としての運河の威力はイギリス中に響き渡るのです。

そして訪れるのが「運河狂時代」、すなわち「カナルマニア」。
全国のいたるところで運河が計画され、
投機資金が集まるのです。

そこまでは私も何度も書いているのですが、
実際に金を出した「投機家」なり「投資家」は誰だったのでしょうか?

川北によると、それは地主ジェントルマンだといいます。

ジェントルマンとは、

膨大な不動産を所有して、その貸し賃で、上流の生活をする人(P.37)

であり、その人口は、イギリス全体の5%程度(同)だったということです。

ジェントルマンは決して自ら働きません。

自ら労働をして報酬を得れば、原則として、ジェントルマンの地位を失うとされていました(同)

その彼らがなぜ運河に投資したのかというと、
まず、言わずもがな、運河を作るには土地が必要で、
その土地を所有していたのがジェントルマンであったこと、
運河を作るには議会の承認が必要で、
議会のコネのあるジェントルマンの出番が求められたこと、
そして、運河のようなインフラへの投資に対するリターンは長期にわたるため、
一般のし企業経営者の興味は薄かったこと、
などを川北は挙げています。

当時、イギリスでは毛織物産業がすでに発達しており、
少なからず資本を蓄えた業者もいたようです。
が、インフラへの投資は、利益どころか、
投資した額を回収するのに相当な年月がかかります。
一企業家にとってはあまり旨味のない事業なのです。

しかしジェントルマンは違いました。

(なぜインフラに投資したかというと)、それは、経済的非合理主義的な発想、
言い換えればジェントルマン的な発想から出ています。
一円の保護者としてのメンツ、箔とでも言うのでしょうか、
となりの領地までは立派な道路がついているのに、
自分の領地にないのは格好が悪い。(P.184)


実際には、ジェントルマン的発想で、
経済的な損得を中心に考えなかった人たちがいて、
しかもその人たちは大金を持っていた。
そういう条件があったのではないかと思っています。(P.185)


運河ならずとも道路、鉄道などのインフラは、
中央政府や地方自治体などの「公」がその建設主体であることがほとんどです。
日本は、鉄道こそ民営も多いですが、
民間が作った道路というのはあまり聞いたことがない。
逆に、政府が作ってその後民営化されたというのが現代のあり方です。

しかしイギリスでは、運河も鉄道も、まず民間が作りました。
その「民間」というのが、すなわちジェントルマンであったというわけです。


産業革命において運河建設にジェントルマンが果たした役割も勉強になりましたが、
もっと興味深かったのは、成長パラノイアという概念です。

今回の大地震で思い知らされたこと
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by narrowboat | 2011-03-19 21:50 | 運河の本、ビデオなど | Comments(4)

見沼通船堀

先日、行田で見沼代用水を偶然走ることになったこともあって、
先週末は見沼通船堀を見に行ってきました。

見沼代用水は、利根川から取水した水を内陸部まで掘削した水路で運ぶ農業用水なんですが、
さらに延伸させて荒川とコネクトしたことにより、
舟運にも利用されていたのですね。

見沼代用水は、途中で二股に分岐し、それぞれ「西縁」「東縁」と呼ばれています。
この2つの水路の間に芝川という人工河川があり、
ほぼ平行したこれら3つの水路を横(東西)にリンクするために建設されたのが見沼通船堀です。


東浦和駅からはじまった探索は、まず西縁から通船堀へ。
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西縁にかかっていた橋には、昔日の舟運を思わせるレリーフも。
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通船堀も、見沼代用水路西縁~芝川までの間が西縁
芝川をはさんで東側、見沼代用水路東縁間が東縁と呼ばれています。

まずは西縁を走っていくと、西縁二の関の跡に表示がありました。
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このあたりの水路はこんな感じ。

このとは閘門、すなわちロックのことです。
芝川より代用水路のほうが水位が3メートル近く高かったため、
ロックによって水位を調整していたのです。

しばらく行くと、西縁一の関が見えてきます。
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こちらは、閘門が再現されています。
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案内パンフレットに閘門の通過の方法が描かれており、
その原理はイギリスなどと共通なのですが、
注排水をどうやっていたのか、よくわかりません。
おそらく、水の中に体積のある木材などを投げ込み、
水かさを上げ下げしていたのだろうと想像されます。

この一の関の河岸には、鈴木家住宅があります。
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鈴木家は、この見沼通船堀の差配、つまり水路の整備や通行料金の取立てを務めていました。
まさしくロックキーパーですよね。

旧住宅は、土日のみ一般公開されています。
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内部は展示室に。
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艇庫に格納されている舟は、実物の半分のスケールで再現されたものだそうです。
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そして、ここが通船堀のほぼ中央に流れる芝川。
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これまで歩いてきた西縁への入口。
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今から、こちらの東縁へ入っていく。
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東縁のほうにも一の関、二の関があり、こちらは両方復元されている。
年に一度、ここで通船の様子を披露するデモが行われるそうだが、
こちら東のほうでやるのだろう。
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ほどなく通船堀東縁は見沼代用水路東縁に突き当たり、
通船堀探索はあっという間に終わってしまいました。
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せっかくなので、見沼代用水東縁を自転車で走ってみます
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by narrowboat | 2011-03-08 17:47 | 日本の運河と川 | Comments(0)